暗号アンソロジー エニグマ

「ひかりと」 あきひめ

 悪いことをしてはいけない、と教えてくれる大人は多いけれど、そうじゃない。悪いことをするとどうなるかを教えてほしかった。
 朝方、家に怖い顔をしたおじさんたちがやってきて、なんとかって書類を見せられて、部屋を荒らされた。お母さんは泣いていた。そんなに泣くくらいなら、ぼくに悪いことをするとどうなるか、きちんと教えておいてほしかった。お父さんは仕事で、もういなかった。まだ小さい弟は、泣いているお母さんに抱かれてぐっすり寝ていた。それが、最後だった。
 ぼくはパトカーに乗せられて、また怖い顔のおじさんたちに、なんとかって言われた。聞き取れた単語はほとんどなくて、かろうじてわかったのは「タイホ」「ホゴ」くらいだった。おじさんはぼくの手を黒い洗濯ばさみみたいな手錠で締め付けて、そのまま腰に縄をつけた。まるで危険な野良犬を無理やりつなぐみたいに。こうしてぼくは、「タイホ」された。
 心当たりがなかったわけじゃない。一週間前に、駅で泣いていた赤いランドセルの女の子を公衆トイレで殺したこと。たぶん、あれだ。それじゃないとしたら、女の子を殺すために使ったかなづちを、ホームセンターで万引きしたこと。それもちがうんなら、同級生の家の犬を試しに殺したことか、女の子のランドセルを川に捨てたことだろう。
 パトカーに乗せられてからあとのことは、あんまり覚えていない。怖い顔のおじさんに囲まれて、質問に答えたことくらいしか覚えてない。何か話してはいたと思う。けど、学校や家のときと同じで、ぼくの体から心だけが離れてしまって、代わりに「誰か」がぼくの体を操縦していた。だから、なにも覚えていない。
 次に気が付いたとき、ぼくは少年刑務所にいた。そこは、文字通り少年のための刑務所だった。ぼくはてっきり、「少年院」というところに行くんだと思っていたから、少し驚いた。入った日、同じ房にいたセンパイは「やべー犯罪をすると、未成年でも大人と同じように刑務所に行くんだ。ゼンカもんだぜ。」と教えてくれた。彼は、ぼくが何をしたかをやけに聞きたがっていたけれど、逆にぼくのほうから何をしたかを質問したら、黙ってしまった。黙っているセンパイの顔をじっと見ていたら、突然顔を殴られて、ぼくの心はまた体から離れてしまった。
 刑務所に入ってからも、ときどき警察の人か、お医者さんか、がぼくに質問をしにきた。小さな白っぽい部屋で、最後は決まっていつも「どうして」「なぜ」と聞かれるけど、うまく説明できないから、ぼうっとしていた。
 刑務所の大人たちは、ぼくを「マトモ」にしたがっていた。ぼくが入った少年刑務所の中には、学校のような施設があって、ぼくはときどきそこに連れていかれた。ぼくのように、刑務所に入れられる「やべー犯罪」をしたらしい少年たちが、学生になりきっていた。ぼくも、その一員となって学生になりきる時間を過ごす。正直、退屈だったけど、まわりの大人たちはおとなしくしていると怒らずにいてくれるから、またぼうっとして過ごしていた。

 刑務所の中では、個人間のやりとりは基本的に許されていない。作業の時間はシゴゲンキンで、房に戻ってからもそれは変わらなかった。とはいえ、周りの少年たちは夜になると結構しゃべっていた。初日にぼくのことを突然殴ったセンパイは、別の房になって、もういなかったけど、同じくらいの年ごろの少年が他に四人いた。ぼくが五人目だった。毎日繰り返されるのは、「今日の作業だるかった」「俺は学校モドキのほうが嫌いだ」「あの看守の息がくさい」とか、そんな話だ。四人のうち、にしやんとべーすという2人が一番長くいるらしかった。少年刑務所の食事は量が多くて、しかも残すと怒られる。だから、長くいる受刑者ほど太っているのだ。まるまるとして汗っかきのにしやんはもうすぐ刑期が終わる、と毎日必ず言う。目つきが鋭いべーすは背も幅も大きくて、作業着のボタンがはじけ飛びそうだった。耳にはピアスのあとがあって、「暴走族だった」ことを何度も自慢する。あとの二人は、ぼくとそんなに年が変わらないだろう、痩せ型のゆうきと、ロンパリのじゅんた。ゆうきのほうは、同じクラスにいたら女子に騒がれるだろうな、というちゃらちゃらした雰囲気。じゅんたのほうは、猫背でひきつった笑い方をする。四人とも本当の名前はわからない。房にいるときはお互いをあだ名で呼び合っているし、房から出て作業や学校ごっこをするときは、番号で呼ばれているから。
 ぼくはやってきた日に、にしやんとべーすに「プロ」とあだなをつけられた。理由は、五人のうち殺人で収監されているのがぼくだけだったからだ。
 にしやんやべーすは、長くいるだけあって、作業の時間や学校の時間中も、なんとかして他の房の少年たちとコミュニケーションをとる方法を知っているようだった。二人のせいで、ぼくがなぜこの刑務所にやってきたかは、あっという間に広まってしまった。房の中にいるとき、にしやんとべーすはぼくのことを「プロ」と呼び、茶化しておもしろがっていたけど、他の少年たちはそうじゃなかった。ぼくの私物はしょっちゅうなくなり、トイレに閉じ込められたりもした。集合に間に合わず、カンシュに怒られたこともある。集合の遅刻は連帯責任となり、結果的には同じ房の四人にも、ぼくは煙たがられるようになってしまった。結局、学校と同じだった。

「きみにいやがらせをするやつらはね、どうせションベン刑だよ。」
 ある日、作業中に話しかけられて、どきりとした。その日の作業はミシンだった。それまでは布を運ぶ作業だったが、年が若くて非力なぼくとゆうきとじゅんたは今週から新しい作業になった。作業室の中はむあっと暑苦しく、みんな汗くさかった。たくさんのミシンが絶え間なくダカダカと音を立てて動いていて、布運びの作業よりも騒がしい環境だったから、「彼」はぼくに話しかけてきたのだった。
「ションベン。」
 ぼくが聞き返すと、はじめて見る「彼」はにやりと笑って、
「1年未満の刑期のやつのこと。成人の人らが使ってる言葉だよ。そうじゃなかったら、きみにいやがらせなんかできないさ。」
 と教えてくれた。この少年刑務所には、成人の受刑者もいるというのを、ゆうきとじゅんたが話していたっけ。「ボビン替えを願います!」と誰かが大声で叫び、カンシュが「よろしい!」と叫び返すのが遠くからぼんやり聞こえた。
 話しかけてきた「彼」は、ぼくより何年か年上の、高校生くらいの少年だった。一瞬スキンヘッドかと思ったけど、ちがった。生まれつきの金髪を坊主頭にしている。あと、目も全然ちがった。「彼」は、おそらく外国人の血が混じっている。そう思った。ここに来る前、ぼくの周りには、ハーフと呼ばれる人はほとんどいなかったから、近くで顔を見てまたどきっとした。ほんとうに、「白人」なんだなぁ。額の青い血管が浮き上がって見える。目がアマガエルみたいな、ほんとうのみどりだ。と考えていたら、またぼくに話しかけてきた。
「きみ、プロだろ。」
 瞬間的に、にしやんとべーすの顔が思い浮かんだ。そうか、同じくらいの年ごろだ。きっと彼らが話したにちがいない。
「そのあだな、好きじゃない。」
 ぼくがそう言うと、
「そっか、じゃあ名前は。」
 と特に驚いた様子もなく、話を続ける。ぼくはてっきり、また殴られたり小突かれたりするかと思って、体をぎゅっと強張らせていたが、その毒気のなさにふっと気が緩んだ。
「……ヒカル。」
 苗字を言いそうになって、ぐっとこらえた。
 ぼくはもう、あの家には戻らないだろう。にしやんか、べーすも言っていた。ぼくみたいな「プロ」はシュッショしても、誰も喜ばないから、名前を変えて全然ちがうところに引っ越さなくてはいけないと。あのあと家族がどうなったか、ぼくにはわからない。もしかしたら、大人の誰かが教えてくれていたのかもしれないけれど、「ぼく」はそこにいなかったから、なにも覚えていない。
「ヒカル、ヒカルね。おれ、リヒト。」
「外人なの。」
「ハーフだよ、おやじがドイツ人、らしい。」
「らしいって。」
「知らないんだ、会ったこともない。」
「お父さんなのに。」
「きみ、質問ばっかだな。」
 ぼくは、リヒトの言葉にはっとして、黙った。ちょうど、見回りのカンシュが近くにやってきた。ぼくは話していたことを隠すために、慣れないミシンの上下する針の動きをじっと見つめて作業に戻った。となりのリヒトのミシンは、ぼくの100倍くらい早く動いている。カンシュが通り過ぎると、またアリヒトが「べつに、質問してもいいけど、さ。」とぼくの腕を、肘で小突いた。ほんの少しだけ、ぼくのミシンの軌道がぐらついた。そもそも、このずうっと直線に縫い続けている布がいったい何者なのか、ぼくにはわからなかったから、ぐらついたところで大した問題ではないのかもしれないけれど。
「ヒカルはさ、何を殺したの。」
「え、」
 ぼくはリヒトの声に、肩を震わせた。また、縫い目がぐらついた。さっきよりも、大きく。
「殺したから、プロだろ。」
「あー、」
 ぼくは答えられなかった。ぼくは一体何を殺したのだろう。赤いランドセルの女の子。それはそうだけど、本当にそうなのだろうか。殺すって本当はもっと、ずっと、恐ろしいものだと思っていた。だってそう教えられてきたから。だけど、実際にはそうでもなかった。むしろ、楽しかったかもしれない。だとすると、ぼくが殺したのは本当に「人間の女の子」だったのかな。
「……リヒトは。」
 どんな答えも期待してはいなかったけれど、ふと聞き返してみる。すると、リヒトはアマガエルの目をまんまるにして、ぼくを見た。そして、すぐににいっと笑った。
「おれはね、豚だよ。」
「豚って、殺しちゃいけないの。」
「いいに決まってる。だって食うとうまいだろ。」
『じゃあなんで、リヒトはここにいるの。』
 そう聞こうと思ったら、作業終了のベルが鳴ってしまった。カンシュが大声で「セイレーツ!」と叫んでいる。汗まみれの男たちがだらだらと立ち上がって、最初と同じセイレツ位置戻っていく。リヒトはぼくの隣から離れるとき、ぼくにだけ聞こえる小さな声でこう言った。
「つづきは、夜にな。」
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