暗号アンソロジー エニグマ

「キリンジリンク」 薄明一座

麒島芳香(キジマヨシカ)は自殺した。
遺書は見つかっていない。

              ***

8月10日、晴れ。
スマホで時間を確認するとまだ余裕のある時間だった。
折角なら3日遅く来てくれれば今日の登校日は中止になったというのに、間の悪い台風は街を撫でるだけ撫でて何処かの海上で満足して消えてしまった。
朝ごはんを済ませて夏服に袖を通し、履きなれたスニーカーに足を入れると、少し前まで行く気が無かったのに、すっかり学校に行く準備が終わってしまった。
「行ってきまーす」
家にいる両親に声をかけて玄関を開けると、夏真っ盛りの強い日差しと肌をじりじり灼く陽光に包まれる。
「お、今日は緑色」
学校に向かう道から、10階建てマンションくらいの高さで表面が苔の様に緑色になっている巨人がよく見える。
デフォルメが過ぎて、何とか顔と手足だけが分かるその巨人が街に現れてから、もう5年くらい経つ。
当時中学1年生だった私は、ある朝、今日の様に登校しようとして突然現れていた巨人にすごく驚いた。
私だけではなく、街中の人達がびっくりして、あの巨人は何なのかと調べようとしたが、それが1人の少女が作った物である事と、何か鉱物の様な材質である事以外何も分からなかった。
少女の名前は『麒島芳香』。
当時は高校3年生だったと聞いている。
私はあまり知らないだけど、所謂天才児だとかで色んな製品の開発や改良を行って、特許を何個も持っていたらしい。
巨人出現事件の後に、私も気になってネットで検索して、彼女が開発した何かの機械の説明をしている動画を見たが、淡々を説明を続ける姿から“キャリアウーマン”という言葉を連想したのを覚えている。
でも、麒島芳香さんが何故巨人を造ったのかは何も分かっていない。
巨人出現の3日前に彼女は自殺してしまったという。
亡くなった後なのだから、彼女に代わって作業した人がいたはずだけど、そういう人も見つかっていない。彼女の家族は引っ越してしまった。
先日の台風にも耐えた様に巨人はやたら頑丈らしく、解体ができないとかで市も扱いに困っているらしい。
私はもうすっかり慣れてしまって、日によって表面の色が変わる謎の巨人を『キジマさん』と呼んでいた。

「果穂、久し振りー」
「あ、ケーちゃん」
教室に着いて夏休みの宿題のプリントに『和泉果穂(イズミカホ)』と名前を書いていた私の頭が撫でられ、顔を上げると友人の芦木桂(アシギケイ)が微笑んでいた。
ショートの髪に似合う爽やかな笑顔だった。
「ケーちゃん、すごい焼けてる」
「部活以外でも泳いでるからねー。格好良いでしょ」
「おばあさんになった時シミになっちゃうよー」
「その時は婆さんの私が何とかするでしょ。って、果穂、学校で宿題やってんの?」
「うん、すぐ終わりそうなやつだけね」
「あとで見せて」
「いいけど、ケーちゃんは持ってきてるの?」
「……持ってきてない。写真できたら撮らせて」
「私の答え、合ってるか分からないけど?」
「……自分でやるしかないかー」
嫌そうな表情を浮かべて、私の後ろの席に座った彼女は、スマホを取り出していじり始めた。
私が宿題を進め始めて20分ほどで先生が現れて体育館へ移動が始まった。
何故かケーちゃんよりも真っ黒に焼けている校長先生が始めた話の中で気になる話が出てきた。

「最後に、校長先生も言ってたけど、先週から変な集団がうろついてるらしいから、皆は暗くならない内に家に帰るように。はーい、きりーつ、礼」
担任の号令の後、皆ガヤガヤと校長と担任の先生が言っていた集団について話し合っていた。見た、と言っている男子の声も聞こえた気がする。
「果穂、変な人達って見た?」
「ううん。ケーちゃんは?」
「ん~、部活と趣味で結構出歩いてる自覚はあるんだけど、見た事ないなぁ。だいたい、変ってどう変なんだろ」
「人の家を覗き込んでたって言ってたね」
「どうせ“探索者”の人達じゃないの?」
「あの人達、すぐ見なくなったじゃない」
「だから、何か新発見でもあったのかもよ~」
何故か両手をブラブラしてお化けの仕草をするケーちゃん。
謎の巨人出現は街中の人達に衝撃を与えたが、影響は県外や海外にまで及んでいた。
結果として、巨人を見ようと沢山の人達が観光に押し寄せた。
特産品はあるものの特に名勝の無かった街はにわかに活気づき、一時の流行にもなったのだ。
そして、その中から、何故か巨人を熱狂的に追いかける人が現れ、更にその人達の中から『これは麒島博士から我々への何かのメッセージだ』と言い出す人達が現れ、県や国なんかとは別に独自の調査を始めたのだ。
その人達は調査と称して麒島さんの家の敷地に勝手に入ろうとしたり、巨人が見える場所にある空家に勝手に入ったり、写真を撮る為に勝手に枝を切ろうとしたりして問題になっていた。
そんな人達を、どこかの子供が“探索者”と呼び始め、街中ですっかり浸透してしまった。
今はもうそんな問題行動を起こす人はいなくなったものの、独自に調べている人はまだ残っている。
「ねえ、果穂、今日ヒマ?」
「え? 予定はないけど……」
「折角だから遊んで帰ろうよ」
「今日? 今早く帰れって言われたばっかりなのに」
「何か変な人達を見たくなって」
「止めなよ。危ないかもしれないのに」
「だから遊びに行くんだよ。賑わってる所だけで遊びながら探すの。人気のない所には絶対に行かないって事で」
「えぇ~……」
ケーちゃんとは中学に入った頃から仲良くなって、巨人出現の時も2人で盛り上がった。その時と似た目の光をケーちゃんの今の目からも感じる事ができる。きっと1人でも行ってしまうだろう。
「……分かった。ケーちゃんが心配だから付いていくよ。絶対に人気の無い所には行かないんだね?」
「もちろん!」
「見かけても声をかけたりしないね?お菓子あげるって言われてもついていかないね?」
「はい!」
ノリを合わせて元気よく手を上げてくれるケーちゃんの目は真夏の太陽に似た輝きになっていた。
「じゃあ、暗くなる前に行きますよ。私から離れない様に」
「はーい!」
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