暗号アンソロジー エニグマ

「留年探偵」 本庄照

 腕はいいが性格の悪い医者、性格はいいが腕の悪い医者。どちらに命を預けたいかという問いには、どちらにも命を預けたくないと答えるのが正しい。
 しかし、それを完全に両立した医者などいないわけで、現実的にはある程度が両立できていれば医者になれるのだが、片方だけでは医者にはなれない。
「性格というか、倫理観だな」
「腕というか、頭だね」
 互いに視線を交わした瞬間、バチリと音がしたような気がした。互いに互いを見下し合っていた。倫理観に欠けて留年した男と、頭が悪くて留年した男。五十歩百歩、どんぐりの背比べ、目くそ鼻くそ。二人を喩える言葉は世の中に数多あるが、二人に自覚はない。
「お前、いつか教授を怒らせると思ってたよ」
「君だって今まで進級してこられていたのが不思議だよ」
「俺が留年したのはさ、まあ分かる。CBT不合格、成績が悪い奴にはよくあるケースだ」
 小泉《こいずみ》由良《ゆら》が半笑いで隣の方を見ている。仲が悪い二人ではなかった。かといって特別仲が良いわけでもない。そもそも交流が始まったのは、数カ月前に東《あずま》秀志郎《しゅうしろう》が由良の隣に引っ越してきてからだった。こうして昼から宅飲みするのは初めてのことだ。共に留年したよしみとして、なんとなく声をかけた結果である。
「そうだね、単なるバカならたくさんいるからね」
 返す刀は鋭い。東の言葉はあくまで表面上穏やかなのに切れ味は抜群だった。由良は東に注いでやったビールを奪い返し、一気に煽る。
「由良くん、君の地頭は悪くないと思うんだけどね。でも試験前日にアルバイトを入れて留年するのはバカだ」
 東は新しい紙コップにビールを注ぐ。
「シフト、入るしかなかったんだよ」
「君、優しいんだね」
「…………」
 顔の赤い由良だが、これは酒のせいというより照れの方が大きい。
「でもさ、俺よりお前の方がよっぽどバカだと思うぜ」
「どこが? 僕は一桁順位を割ったことがないんだけど」
「単位持っていかれるほど教授を怒らせる奴のことをバカって言うんだよ」
「僕はただ、試験で『医師の存在意義は?』と問われて『金』を選んだだけだよ」
「それ禁忌肢だろ」
 禁忌肢とはいわゆるドボン問題で、その選択肢を選ぶと正答率にかかわらず即不合格となる問題である。しかし難易度は非常に低く、普通は誰も選ばない。由良も試験中に笑いながらその選択肢を切った覚えがある。
「僕は過去問使わないからね。知らなかったんだよ、それが禁忌だって」
「知ってるかどうかじゃなくて、誰も選ばないんだよ」
 東の顔が真剣すぎて、異常なのは自分の方ではないかと由良は思い始めた。しかし当然、そんなわけもない。
「聞いたぞ。教室に呼び出されて、さらに教授を怒らせたんだってな」
「僕は正直な気持ちを答えただけだよ」
「なるほどなぁ、留年させられるわけだ。こんな倫理観が死んでるやつ、五年にするわけにはいかないもんな」
 広いリビングに由良は笑い声を響かせた。経緯は違えど、同じマンションの学生が同じ学年を留年したわけだ。笑いが込み上げてくるというものだ。
「こんな奴と俺が同じ立場だなんてな」
 由良の笑いがだんだん自嘲気味になる。その意味が分からないのか、きょとんとした顔で東はこちらを見ている。
「まあ、僕の倫理観に問題があるのは納得ではあるけど」
「納得するのかよ」
「倫理観がない医師でも僕はいいと思う」
「そういうところだよ、お前の倫理観がないところ!」
 根本的なところで東はズレている。一年放置したくらいで治るのだろうか。無理だろうな、と由良は思った。何科に行けば治療してくれるんだろう。
「お前、なんで医者になろうと思ったんだ」
「親が医師だったから」
 そこは金じゃないのかよ。医者の意義を金と答えて留年したくせに。
「最初は医師になるのに特に理由なんてなかったよ。親が医者だったから、なんとなく目指しただけでね。でも大学に入ってみたら、なんか医学が面白くなくてさ。今は、稼げるのなら卒業してやってもいいし医師になってやってもいい」
 やっぱり金か。教授との喧嘩は嘘ではなかったというわけだ。
「羨ましいな。俺は医者になるしか道がないからな」
「なんで?」
「金が欲しいんだ」
 苦い気持ちを噛みしめて由良は答えた。由良は学年でも一、二を争う貧乏、いわゆる苦学生だった。今までは奨学金に加え、月数万のアルバイト代を稼いで大学通いしていた。就職すれば金は稼げるが、それまでは雀の涙のアルバイトで食いつなぐしかない。
「なんだ、君も金目当てで医師になろうとしてるんだね」
「でも俺は試験の答案にそんなバカなことは書かねぇし、ちゃんと金を稼げるような腕のいい医者を目指してるんだよ」
「頭が悪い医者を腕がいいとは言わないよ」
「……さっき、地頭がいいって言ってくれたのに」
「地頭は良いけど成績が悪い。結局はバカじゃん」
「……勉強する時間がなかったんだよ」
 そもそも、試験前日まで必死にアルバイトさえしていなければ留年などしなかった。金に飢えて働いた結果、留年してさらに多くの金を失った。笑いたければ笑え。
「大変だね」
 東の棒読みが由良の心を傷つける。
「親が医者の金持ちに、俺の気持ちは分からんよ」
「そうだね、僕には貧乏の気持ちは分からないし、これからもわからないと思う」
「自信家だな」
「嘘は嫌いなんだ」
そこは嘘をつくべきところだろ。
「……あと、僕自身もそれなりに稼いでいるからね」
 滔々と暴言を吐いていた東の口調が少し重くなった。
「あまり人には言わないでほしいんだけど、投資やってるからさ」
「…………」
「細々とだけどね。小遣い程度にはなるよ」
 種銭すらない由良には無縁の話である。しかしどうにも気になって、由良は不毛な質問を思わず投げかけた。
「……それ、どれくらい稼げるんだ」
「平均すると、月に二十万ってところかな。毎月違うけど」
 なーにが細々だ、なーにが小遣いだバカ野郎。しかもこいつは家賃と光熱費は更に別だと抜かす。大学生の持つ金額ではない。
「だから僕には、君の気持ちがわからない」
「俺もお前の気持ちがわからんわ」
 親が医者で、ファミリー向けの部屋に住み、高級車を乗り回し、やたらデカい家電を買っている時点で察していたが、ここまでとは。豪遊の次元ではない。
「もうそれ、働く必要ないだろ」
「医者になったら脳死で働いてもそれなりの金になるからね。医者になるのが趣味と言ったところかな」
 脳死で働いて医者をやっていけたら苦労しない。いや、こいつの頭脳なら可能なのか。
「君には趣味ってないの?」
 顔の赤くなった東に問われ、由良は言葉に詰まった。アルバイトに明け暮れる彼に、趣味に打ち込む時間はなかった。アルバイトを趣味と呼ぶのは嫌だ。スマートフォンに入れているゲームも暇つぶしでしかない。強いて言うなら??。
「星を見ること、かな」
「天体観測ってこと?」
「そんな高尚なもんじゃねぇよ」
 金がない由良は望遠鏡も双眼鏡も持っていない。こんな田舎であれば、自転車を少し走らせれば、空を見るのに都合のいい真っ暗な場所にはいくらでも行ける。必要なのは毛布とビニールシートのみ。簡単で金がかからないから選んでいるに過ぎないだけの趣味だ。
「いい趣味だね。よくいるよね、星が好きな人」
「……俺以外見たことないけどな」
 珍しく褒められたが、それもどこかズレているような気がする。留年したからといってこんな東と仲良くしていいのか、と由良はビールで鈍くなりつつある頭でぼんやり考えていた。
「結構いると思うよ。前にこの部屋に住んでた人もそうだったし」
「……前の部屋の住人と交流があるのかよ」
「臨床実習《ポリクリ》で仲良くなった研修医だよ。この部屋を出ていくと知って、僕が後釜に収まったってわけ」
 東は立ち上がって隣の部屋に入った。ワンルーム居住の由良にとっては、一人暮らしなのに部屋が複数あるということ自体が興味深い。東はすぐに何かを手に持って戻ってきた。
「前の住人への手紙だよ。なんかこの部屋を出たのを知らない人から届いたみたいでさ」
 既に封は開いていたらしく、東は折りたたまれた一枚の便箋を取り出す。
「勝手に開けたのかよ」
「僕に届いたものじゃなくても、僕が受け取ったんだから開ける権利くらいはあるよ」
 ねぇよ。
「ま、本人が読めるわけもないしね。僕が読んであげるだけマシってものだと思うけどな」
「……知り合いなんだろ? 返してやれよ」
「無理だよ」
「なんで?」
「前の住人は死んだから」
 何事もないかのように、至って穏やかに東は答えた。言葉を見つけられずに黙った由良を横目で見ながら、東は便箋を広げて由良に見せる。しかし由良にはそんな便箋に目を通す余裕などなかった。
「知らない? 事故で死んだ研修医だよ」
「……交通事故の人?」
 東は頷いた。アルバイト漬けで忙しい由良も噂は聞いていた。座学の授業がすべて終わり、共用試験も終わって結果を待つ間に始まった臨床実習にもまだ慣れぬ頃だった。だから今から半年ほど前のことになる。一人の研修医が不幸な交通事故に巻き込まれ、命を落とした。顔も名前も知らない研修医だったが、まだ若い彼のことを思って由良は心を痛めていた。
「臨床実習で食事に行った時に仲良くなってね。もうすぐ下宿を変えたいって話をしたら、自分も丁度出ていく予定だからってマンション名を教えてくれたんだ。まさか、死んで部屋を出ていくとは思わなかったけど」
「お前、知り合いが突然死んでも何も思わないのか」
「そりゃあ可哀想だとは思うよ。でも、僕じゃなくてよかったってのが一番大きい」
「…………」
 さらりと答えるあたり、自覚も罪悪感もないのだろう。やはりこの男につける薬はない。
「葬式にもちゃんと行ったし、今は彼を悼む悼まないの話じゃないよ」
「……何の話だよ」
「手紙だよ」
 そうだった。いや、違う気もするが、今は東に合わせておいた方がいい。
「その手紙、俺も読んでいいのかな」
「もちろん。受け取り主は死んでるから」
 何がもちろんなのか。
「そんな手紙がなんでお前の家に来たんだよ」
「送り主は、受け取り主の藤田先生が死んだのを知らないんだと思うよ。だから住人が変わったのに手紙を送ってきた。遺族だって、まさか死人に手紙が届くわけないと思って転送処理もしていないだろうしね」
 少し迷ったが由良は手紙を手に取った。東がやたら由良に読ませようとする理由が気になった。封筒の宛名は美しい字で藤田恭平と書かれている。この部屋の前住人だ。住所の方はやや汚いが確かにここだ。手紙の末尾には萩原綾乃とある。恐らく女性、綺麗な字からも察しが付く。

 前略
 藤田先生。
 お元気ですか。先生に星の本を返せずにいてすみません。
 体調がいい日には星を眺めています。病院からはあまり見えませんが。
 いつか退院したら一緒に星を見に行きましょうね。先生の星の話、また聞きたいです。
あと、先生にお願いがあるんです。
 くをかだしいほすみをらまわおたたてれししも
                        かしこ

「……最後のこれ、何だろうな」
 普通の手紙のはずだった。なのにいきなり異質な文が混じっている。綺麗な字で要領を得ない文は、強い違和感を超えてある種の恐ろしさをも感じさせる。
「暗号になってるんだよ」
 東が横から手を伸ばし、最後の一行を指し示す。ヒントは暗号の文字数、と書かれている。
「星が関わる暗号だと僕は思っているんだよね。だから由良くん、暗号を解いてくれない?」
「……嫌だよ」
 星のことを少し知っているくらいで暗号は解けない。そもそも、暗号なんて今まで一度も解いたことがない。そして何より、
「俺はバイトで忙しいんだ」
 由良には暗号解読に費やす時間などない。今日のような休みはめったにない。今後は馬車馬のように働く毎日が待っている。だから断るしかない。そして、こんな面倒な男とは最低限の付き合いだけで済ませたい。
「だろうね」
 しかし由良の決意など露と知らない東は立ち上がって、さきほどの部屋に入る。また手に何かを持って出てきたが、今度は封筒ではなかった。
「タダでとは言わないよ。これでどう?」
 東が指と指の間に摘んでひらひらさせているのは福沢諭吉だった。由良は思わず口をぽかんと開けていた。東は由良に福沢の姿が見えていないとでも思ったのか、由良の目の前に福沢を持って行き、ゆっくりと振ってみせた。
「……お前、同級生を金で釣る気かよ」
「そうだよ。何か問題ある?」
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