暗号アンソロジー エニグマ

「東京メトロ銀河鉄道線」 入江弥彦

 暗号が解けたと言ったら車掌さんはどんな顔をするだろう。
 嘘おっしゃいと髪の毛をかき回されるかも知れないし、答えはなあにとわかっていながらにやけるかも知れない。ああ、きっと後者だ。
 部屋の窓を開けると、遠くから汽笛が聞こえた。


 人の溢れる地下鉄のホームで方向転換をした僕に舌打ちをしたのは、父と同い年くらいのサラリーマンだった。
 すみません、と小さく謝ってからもう一度辺りを見回す。先ほど見つけた綺麗な黒髪は人に紛れて見えなくなっていた。落胆して立ち止まる僕を邪魔な存在として見る視線、心配そうな視線、面白いものを見つけたとでも言いたげな視線、それらすべてが不愉快で思わず小さくため息を吐く。
 電車がやってきてホームの人が減る。でもすぐに改札から入ってきた人でホームはいっぱいになる。ホームの端にしゃがんでその繰り返しを眺めていると、次第に人は少なくなっていった。もう終電が近いのだろう、疲れた顔をした人たちの代わりに酒に酔った人が多く見られるようになった。僕の待っている電車は、それでもまだ現れなかった。
「なにしてるの、きみ。小学生かな?」
 不意に声をかけられて顔を上げる。
「あ……」
 視線の先にいたのは、艶のある黒髪を耳にかけたお姉さんだった。ボブカットというのだろうか。子供がやっていたら少し幼く見える髪型も、大人のお姉さんがすれば途端に色っぽいものに変わる。お姉さんは少し膝を折って、僕を見下ろしている。小さな唇がとがっているのは、なにかの不満の表れだろうか。
 僕はきっと間抜けな顔をしているはずだ。開いた口を塞ぐことも忘れて彼女に見入ると、少し不快そうな顔をしてもう一度口を開いた。
「ずっとここにいるよね?」
「あなたこそ、さっきもいましたよね」
 彼女は先ほど見かけた黒髪の持ち主だ。駅にいるのにどこか遠くを見ていて、何かを待っているような顔を間違えるはずがない。
「あら、気付いてたの?」
「僕と同じ顔をしてたので」
「え、私こんなにガキっぽいの」
「表情の話です」
 ガキと言われてむっとした。僕がそう言うと、彼女は両手で自分の頬を掴んだ。表情を気にしているのだろう。そういう仕草は少し子供っぽい。
「もうすぐ終電だけど」
「今日はそれで帰ります」
「明日は?」
「明日は待ってみます」
「へえ、なにを?」
 不躾な人だ。人に何かをたずねるときは名前を名乗ってからだと小学校で習わなかったのだろうか。
「なんでもいいでしょ」
「まあ、なんでもいいんだけどさ。きみ、毎日ここにいるから」
 心配しちゃったと続けて言う彼女が僕の隣にしゃがみ込む。長いスカートを綺麗に折って地面に着かないように気を付けるくらいなら、立ったままでいればいいのに。
「きみじゃないです。ヒョウタ」
「ヒョウタくん? へえ、私の名前なんだと思う?」
「は?」
 知るわけないだろ。そういう本音が一文字にこもった。不機嫌になった僕を意に介することなく、彼女はニヤニヤと笑っている。昔、絵本で見たピンク色の猫がこんな笑みを浮かべていた気がする。
「車掌さんって呼んでよ」
 彼女は名前を名乗る代わりに仕事の名前を口にした。
「なんで、車掌?」
 駅の関係者なのだろうか、僕が不審者に見えて声をかけているのか。身構えながらたずねると、彼女は予想の斜め上を行く答えを口に出す。
「なりたいのよ、車掌さんに。今は見習いだから」
「なればいいじゃないですか」
「地下鉄のじゃないわ」
「じゃあなんですか」
 心臓がドクリと大きく音を立てる。平静を装って僕がそう聞くと、彼女は子供のように微笑んでから立ち上がった。僕の目の前に仁王立ちした彼女が腰に手を当てる。バカっぽい。バカっぽいけれど、よく似合う仕草。先ほどまでとは打って変わって、表情は得意げになっている。すべてバカっぽい。
「銀河鉄道の車掌さんになりたいの」
 けれども発せられた言葉だけは、バカにできないものだった。
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