暗号アンソロジー エニグマ

「手記 -codebook-」 樹真一

 あなたとの出会いは、高校生の頃。
 本で押し潰された押し花のように静かな図書室は、わたしの居場所。膨大な数の本の中に沈めていくように、隠す、隠す、隠す。
 文字が形を変えて、文が姿を変えて、誰にも読めないものになる。わたしだけのものになっていく。
 窓の外は、雨。暗い、夜の欠片が落ちてくるような雨。ぱちぱちと雨の弾ける音は、わたしの中で、文字が置き換わる時の音に似ていた。
 広げたノートの白さと、転がったシャープペンの青さをはっきりと覚えている。書かれた文章の意味は、わたしにも分からない。いや、分からなくはない。一見意味が分からないように、隠している。隠れている。普通の人には分からないように。
 その、本と雨とノートとシャープペンと文字と文字と文字の図書室に、足音が這入ってくる。それが、あなた。今よりずっと若くて(幼くて?)、今と同じ目をした、あなた。その頃のあなたは髪が短くて、夜を見通すような、明日という言葉を丸めたみたいに明るい瞳をしていた。
 その瞳が、はじめは怖かった。わたしのわたし自身ですら隠してる部分を、白日の下にさらされたきもちになったから。
 じゃまだった?というのが、あなたの第一声。わたしは、首をふったと思う。前髪がばさばさと揺れたのを覚えている。
 そっか、じゃましてないならよかった、とあなたは言った。あなたのことばを、わたしは思い出せる。きっと、あの瞬間から始まっていたからだ。
 あなたは、わたしの手元のノートを覗き込む。それだけで、わたしは身動きが取れなくなった。コルクボードに展翅された標本みたいに。
 ノートの上には、おどりをおどるような自由なひらがなたちがいる。
 字ィ、きれいだね、とあなたは言った。けれど、その文字達は意味を隠している。姿を偽っている。つまりは、文字の羅列にしか見えない。はず。らくがきするように書いたものだから、余計に。だから、わたしはそれを隠そうとはしない。隠すと言うことは、つまりそこに意味があるということを表すだけだから。
 だけど。あなたは。
「きょうをわすれないでいて?」
 一目見るなり、そこに隠されていた意味を、読み取った。裸を見られるくらい、恥ずかしかった。いまさら、と思ったけれど、ノートを隠した。
「なんで、読めるの?」
「だって、書いてあるもん」
 すごい、という気持ちと、
 どうして、という気持ち悪さと、同居する。その中で、わたしは気付く。
「解読家?」
 それは、暗号の解読を仕事とする人。わたしと、反対の人。
「なにそれ?」
 と、あなたは言った。知らないということが、わたしには驚きだった。
 解読家は、その詳細は伏せられているけれど、国家資格だ。まるで、暗号のように。
 だけど、わたしには驚きだった。暗号を読める人が、どうして知らないのだろう。コンピュータが絶滅してしまったこの時代で、国によって生かしてもらえる、貴重な存在なのに(もっとも、その国という単位が、昔ほど絶対的なものではなくなったそうだけど)。
「解読家に、なれるよ」
 わたしは思わずそう言ったと思う。解読家についても、語ったと思う。それがどれほど恵まれた才能か、今の世界で必要とされているかを。だけど、初対面のわたしにそんなことを言われても、と思うかも知れない。普通は。
 でも、あなたはそう思わなかった。明るそうな笑顔が、眩しいくらいにわたしを見詰めていた。
「もっと教えて」
 教えて、と言われるがままに。わたしは、知っていることをあなたに話した。暗号のこと、秘密のこと、解読のこと。そして、わたしのこと。
「暗号家」
 とつぶやいた、あなたのくちびるのかたちが忘れられない。
「キミが、鍵を掛けるんだね」
 あなたは言って、その言葉は、わたしの世界の鍵を開けた。
 ずっと不安だった。だって、暗号家なんて、言ってみれば新しい世界の中では戦争の部品だもの。
 だけど、あなたは言う。
「悪い人たちが知りたい秘密に鍵を掛ける、大事な仕事じゃないの?」
 そんな風に考えたことはなかった。そして、あなたはやはり、言う。
「その、解読家?にあたしがなって、悪だくみなんかを暴けばいいんだよね?」
 そう、
「そう、なればいい、わ」
            なれれば、いいのに。
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