暗号アンソロジー エニグマ

「ハコの中で」 赤柴紫織子

 魔法国家ドイツの首都ベルリン――。
 国民ならば一度は名を耳にしたことのある高級ホテル、その上階。
 限られたものしか通されないフロアのカウンターバーでひとりの男がカクテルグラスの縁をなぞっている。
 平凡でどこか頼りない顔立ちに、サファイアのごとく青い瞳、そして張りつめた雰囲気。よくよく見ればバーに酒をたしなみに来ているわけでないと分かるが、その疑問を抱かせず不思議とその場に溶け込んでいた。
 その正体は、国に忠誠を誓うスパイだ。彼はなにもバーで時間を潰しているわけではない。行き詰った問題の解決策として紹介された人物と待ち合わせしている最中であった。
 爪でグラスを弾いた時、バーの扉が開く気配がして男は振り向く。
 そこに立っていたのは美しい女だ。二十代半ばほどで、艶のあるブルネットと凛とした顔を派手過ぎない化粧が際立てている。ボーイの腕に掴まり、片手には杖――白杖を持っていた。まわりの人々は好奇心からちらちらと視線を投げたが、すぐに各々の話に戻っていった。
 男は彼らにひらりと手を振る。その動作に気付いたボーイと女はひとことふたこと会話を交わすと、真っ直ぐに男の元へ向かってきた。男はボーイに多めのチップを与えて下がらせ、少しぎこちなく女をカウンターの椅子に誘導する。
 腰を落ち着けたのを確認して、男は囁く。
「黒い森の天気はどうだった?」
 女は閉じられている瞼をうっすらと弧のかたちに歪める。
「美しく青い川だったと聞いておりますわ」
 ちぐはぐな会話であったが、互いが目的の人物だと分かるとわずかに緊張が解けた。
「初めまして。私はベン・シュミット。あなたは――」
「わたしはソフィアよ。バーテンダー、注文してもいい?」
 あいさつもそこそこに、ソフィアはグラスを磨いていたバーテンダーへ顔を向ける。
「ホワイトレディをひとつ」
「かしこまりました。そちらは?」
「え? ……お任せで。あまり辛くなくて度数が低めの方がいいな」
「ではミモザにいたしましょう」
 リキュールの瓶を手に取り始めたバーテンダーを横目に、ベンは不安げな光を瞳にかかえてソフィアを見た。とはいえ、その光も一度の瞬きで霧散させたが。
「それでソフィア、」
「ベン。あなたの話をして」
「え?」
「髪や目の色、今日の服装、靴の艶加減、あとはそうね――このホテルに入る前に一服した煙草のメーカーも」
 薄い紅の唇で笑みを作りながらソフィアは頬杖をつく。
 あっけに取られた後、ベンは困ったように笑う。
「驚いた。匂いは消したはずだけど」
「目が見えない分、他の感覚は鋭敏なのよ」
「……盲目とは聞いていたが、本当に何も見えないのか?」
「あら不躾な人。でも気持ちはわかるわ。証明しましょう」
 バーテンダーが彼女に声をかけてグラスを置く。ソフィアは的確にグラスを掴む。
 ベンの手元にカクテルが来るよりも前に彼女はひとくち口をつけた。乾杯をしあうような関係を目指しているわけではないが――それでも仕事相手を前に気ままにふるまうソフィアにベンは知らず振り回されつつある。
「これで信じてもらえる?」
 グラスを置くと、ソフィアは自分の瞼を人差し指で押し上げた。
 ――にごった水色の瞳孔が覗く。焦点は合わず、白目との境界も曖昧で、光が眼球にぬめついて反射している。
 使い物にならない、ただそこにあるだけの眼球。
 言葉を失うベンへ、ソフィアは穏やかな声で言う。
「さ、これを飲んだら探しに行きましょうか。口に戸締まりを出来ないおバカさんを」
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