暗号アンソロジー エニグマ

「映像の亡霊」 八神翔

 ビデオ通話アプリに着信があった。
 和倉芳樹は欠伸をしながらパソコンに向かう。マウスを操作し、通話ボタンを押した。
 画面に見知った顔が並ぶ。和倉のほかに四人がグループ通話に参加していた。男二人、女二人だ。
「もしもし、ちゃんと声聞こえてる?」
 和倉はパソコン上部に埋め込まれたカメラに向かって手を振ってみせた。
「おう、ちゃんと聞こえてるぜ。感度は良好だ」
 返事をしたのは、画面の上段中央に表示された男、山中竜司だ。首元から見える肌はこんがりと焼けている。
「全員揃ったね。それじゃあ、早速始めましょうか」
 山中の隣、上段右に表示された斎藤小春がにこりと微笑んだ。手には缶チューハイを持っていた。
 和倉はパソコンの横に置いていたビールの缶を持った。
「では、五人の再会を祝してかんぱーい」
 小春の掛け声とともに、全員が飲み物を高々と掲げる。和倉は缶のふちに口をつけた。疲れた身体に苦味のある液体が流れ込む。上司に無理難題を押し付けられ疲弊した体力が、たちまち回復するような感覚だった。
「それにしても、うちらが顔を合わせるのっていつ以来?」
 画面の下段左、おちょこをあおった佐竹山絵美が、誰にともなく尋ねた。昔は金に染めていた髪が、いまではすっかり黒に戻っている。
「全員が集まるのは、成人式のとき以来じゃないか?」
 答えたのは江口総一郎だ。彼の顔は絵美の隣に表示されていた。
 五人は同じ高校の同級生だった。一年のときに一緒のクラスになり、それからなにかとつるむようになった。高校卒業後はまったく別々の道に進み、連絡を取り合う回数も人によってはだいぶ減ったが、それでも五人の繋がりはいまもまだ切れていなかった。
 今度リモート飲み会しない?
 そんな連絡が小春から来たのは、一週間前のことだ。絵美とメッセージのやり取りをしている最中に、久しぶりにみんなで集まろうという話になったらしい。ただ、五人の住まいはばらばらであった。そのため、直接集まるのはあきらめて、リモートで行うことにしたのだ。
 和倉は久しぶりにほかの四人の顔を見たが、記憶にある顔とあまり変わっていなかった。山中は相変わらず強面で声が大きい。江口の覇気のなさも昔のままだ。皆のアイドルだった小春は美しさを保ったままだったし、服装で生徒指導の教師と毎回揉めていた絵美も当時の気の強さを残している。
「和倉も変わってねえなあ」山中が言った。
「え? そんなことないだろう。ちゃんと見ろよ。すっかり頼もしくなっただろ」
 和倉は右腕を曲げると、力こぶを作った。
「いや、ぜんぜんわからん」
「おまえの目は節穴か」
 久しぶりの再会だ。会話が弾む。
 五人はそれぞれの近況を語り合った。高校を卒業してから七年が経つ。同じ学び舎で生活していた五人の環境は、いまやすっかり変わっていた。
 山中が土木関係の仕事に就いていることは、以前彼自身の口から聞いていた。江口が大手広告代理店で働いていることは初耳だった。おお、と皆が感心の声を洩らす。よく面接通ったな、面接官の弱みでも握ったんじゃねえか、山中がそんな冗談を口にする。小春はIT関係の企業に勤め、絵美は保育士をしているという。
「和倉くんはなにやってるの?」小春が訊いてきた。
「区役所で働いてる」
「うわ、真面目!」絵美が大袈裟に驚いてみせた。「天下の公務員様じゃん」
「安月給のつまらん仕事だよ」
 ひとしきり仕事の話で盛り上がったあと、話題が山中の家族の話に移る。彼が結婚したことは皆が知っていた。結婚式にも呼ばれたからだ。しかし、三歳になる息子がいることは初耳だった。いつの間にか父になっていたらしい。写真とか見せてよ、と絵美がねだり、どうしようかな、と山中は口では言いながらも嬉しそうにしていた。
 画面の右下にもう一人参加者が追加されたのは、そのときだった。
 示し合わせたように会話が止まる。一瞬の静寂が落ちた。
 真っ黒だった画面に、男の顔が表示される。え、と誰かが声を洩らした。もしかしたら、それは和倉自身の声だったかもしれない。
「も、もしかして、黛?」頓狂な声を上げたのは絵美だ。
 黛潤。その名前を耳にするのは高校生のとき以来だった。
「え、てか、なんで黛がこの会話に? 小春、誘った?」
「わたしは誘ってないけど」小春が応じた。
「俺はちげーよ」
「僕も」
 山中と江口も否定する。
「俺も違う」和倉も答えた。
 全員が否定し、不穏な空気が流れた。このサプライズはいったい誰が仕組んだものなのかと、皆が心の中で疑問に思っているに違いない。
「どうして僕がここにいるかだなんて、そんなことはどうだっていいだろう?」
 黛が鼻で笑った。その不遜な態度を受け、山中や江口が表情をさらに険しくさせた。
 和倉はまじまじと黛の顔を見つめた。間違いない、高校時代に何度も見てきたあの顔だ。もう二度と目にすることはないと思っていた。まさかこんなところで再会を果たすとは。
 心臓の鼓動がはやい。ばくばくと脈打つ音が聞こえるようだった。もうアルコールがまわってきたのだろうか。違う。酒は強いほうだ。この程度で酔ったりはしない。だとすれば、これは恐れか。
 和倉はビールを一気に飲み干した。
 手元に置いたスマホが振動した。ちらりと画面に視線を向けると、山中からメッセージが届いていた。
『なんであいつが参加してるんだよ』
 続けてもう一通送られてくる。
『余計なこと言わないよな?』
 こればかりは祈るしかない。和倉は手にしたスマホを操作する。
『とにかくこっちからボロを出さないように注意するんだ』
 山中にメッセージを返信したあと、同様の文面を江口にも送る。
「えっと、久しぶりだね。黛くんも元気にしてた?」小春がぎこちない笑みを浮かべる。「こうやって話すのは、転校して以来だよね」
 黛潤は高校二年生の冬、他県に引っ越した。しばらく不登校の期間が続いたあとのことだった。クラスメイトになにも言わず、突然いなくなった。担任も詳しい事情を告げなかった。家庭の都合、伝えられたのはそれだけだ。しかし、和倉はその理由を知っている。山中も江口も同じだ。だからこそ、黛が今日の飲み会に顔を出したことが衝撃的だった。
「元気、とは言い難いかな」黛が答えた。
「仕事が大変なの?」小春が質問を重ねた。
「いいや。そうじゃない。そうじゃないんだよ」
 はははははははははは。
 突如、甲高い笑い声が轟いた。
 和倉は肝を潰す。ぎょっとして身を引いた。なにが起こったのかすぐには理解が追いつかない。
 黛が大きく口を開けて笑っていた。壊れたおもちゃのように笑い続ける。
 尋常ならざる光景に、和倉を含め誰もが言葉を失った。
「楽しかったよねえ、あの頃は」
 ようやく笑い声がおさまった。黛はぎょろりと目を剥き、顔をカメラに近づけた。
「カラオケ行ったり、ゲーセン行ったり。ときどき勉強会のようなものを開いたり。あとはそうそう、暗号解読ゲームをしたりしたよな。自分で作った暗号を相手に出題して、制限時間内に解けなかったら罰ゲーム。あれは悔しかったなあ、いつも僕ばかりが罰ゲームを食らって」
 肝が冷える思いだった。黛から目を離せない。
 様子がおかしい。かつての大人しく口数の少なかった黛とは、まるで別人だ。
「あれ、みんなどうしたの?」黛が手を振った。「フリーズしてない? 大丈夫?」
「う、うん。聞こえてるよ」小春が慌てたように応じた。
「よかった。なんだか急に静かになっちゃったから、通信が切れたんじゃないかと心配したよ。まだ伝えたいことがあるのに」
 そのとき和倉のスマホが振動した。メッセージが届いていた。宛先人を見て、和倉は凍りつく。
 黛潤と表示されていた。
 慌ててトークルームを開く。
『11011 011 1001 111』
 そこには奇妙な数字の列が並んでいた。
「届いた?」
 黛の声に、和倉ははっとして顔を上げる。
「いま男子三人にメッセージを送ったんだけど。うん、既読もついたし、ちゃんと届いているようだね」
「なんの真似だよ、これは」
 山中が唸るように言った。我慢の限界といった様子だった。もしこれがリモートではなく直接向かい合っての会話だったら、黛の胸ぐらを掴んでいてもおかしくない雰囲気だ。
「暗号だよ。暗号解読ゲーム。懐かしいだろう? 昔やったあれを再現してみたんだ。制限時間は十秒。それまでに解答できなかった場合は、三人とも罰ゲームね」
「は? ふざけたこと抜かしてんじゃねえぞ、てめえ」
 山中がついに声を荒げた。
「なにがゲームだ。こっちはてめえのお遊びに付き合う義理はねえんだよっ」
 山中の剣幕に小春と絵美が身を縮こまらせた。しかし、黛は平然としている。怖がっているそぶりがまったくない。
「解きたくなかったらどうぞご自由に。でも、その場合は負け確定だから。それじゃあ、カウントスタート」
 十、九、八、と黛が数字を数え始めた。
 そのとき、山中の姿が画面から消えた。なにごとかと身構えたが、たんに通話を切ったのだと遅れて理解する。
「七、六」
「付き合ってらんねえ」
 山中が抜けたことで踏ん切りがついたのか、今度は江口の通信が切れる。
 パソコンの画面に残ったのは、和倉と小春、絵美、それから黛のみとなった。
 黛のカウントは止まらない。
 和倉はスマホの画面に視線を落とした。黛の指示に従うのは癪だったが、なにもせずに白旗を上げるのも気に食わなかった。物は試しと思考をめぐらす。
 数字のゼロと一しか書かれていないため、二進法ではないかとあたりをつけた。二つ目の塊のゼロを無視し、十進法に変換すると、二十七、三、九、七となる。しかし、そこから先が手詰まりだった。五十音順に従い平仮名にしても、ひ、う、け、き、となり文をなさない。アルファベットはそもそも二十六文字だから、二十七がある時点で違う。
「三、二、一、ゼロ。残念、正解者は誰もいませんでした」
「黛、あんたどうしちゃったの」絵美はすっかりおろおろしていた。
「どうもしてないよ。僕は僕だ。いまも昔も」黛が笑う。「罰ゲームはきっちり受けてもらうから、待っていてね。それじゃあ、また会おう」
 黛が手を振る。そして彼は退出した。
 残された三人は、しばらくの間無言だった。
「私、そろそろ抜けるね。明日の朝、はやいから」絵美はそう言うや否や、通話を切った。
「俺たちも、終わりにしようか」
「うん。そうだね」
 映像が消え、和倉は椅子の背にもたれかかった。
「くそっ」
 天井に向かって吐き捨てた。
 胃がむかむかする。黛の生意気な態度が気に食わなかった。
「ふざけやがって。なにが暗号解読だ」
 また会おう。
 黛の言葉がリフレインする。
「ふん、今度会ったらただじゃおかねえ」
 和倉は空になった缶をぐしゃりと握り潰した。
 山中竜司が死んだと告げられたのは、それから三日後のことだった。
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