人でなしたちは推理をしない

人でなしシリーズ(2)

第一章 小鹿ひばなは恋をしない

 小鹿ひばなは考えていました。
 いえ、小鹿ひばなというのは私なので今更改まって言うことでもないのですが、こんな風に考えでもしなければ、あまりに不味すぎる現状から目をそらしてしまいそうなのです。
 そう、私は考えています。
 私の目の前には書類と通帳。引き落とすべき家賃と、引き落とされるべき残高。その値は、悲しいほど近似値を示していました。
『金が、ない』
 すっからかんの口座を睨みつけ、私は唸りました。
 頂上葉佩にまつわるはた迷惑な事件からはや数ヶ月。街には平和が訪れました。よかったですね。私はよくありませんが。
 ここのところ、事件がありません。平和そのものです。まるで、いろいろな騒動を彼が一手に引き受けていたかのようです。
 つまりそれは、小鹿探偵事務所存続の危機に直結していました。
「わー」
 なんか聞こえました。
 唸り声を上げているのにも飽きましたし、とりあえずそちらを見ます。目だけで。
 事務所の片隅に置かれた、妙に最新鋭のわりに死ぬほど小さいテレビ。
 一回爆破されたここを直した妙度さんが「カナリアちゃんは小さいしこれぐらいがちょうどいいと思って……」と真顔で置いていったその液晶の前に、馬鹿が座っていました。
 馬鹿の名前は水無瀬片時。
 故あって、この探偵事務所に入り浸っている捜査一課の刑事です。
 見た目はイケメンです。高身長の上に顔は可愛い系に整っていて、よく何も知らない女性が騙されて近づいてきますが、すぐに察してあっという間に離れていきます。
 何を隠そうこの男、『人でなし』というやつなのです。
 人間味がない。感情というものを解さない。おそらく見えている世界自体が、一般人とズレている。
 誰もこいつのことを真に理解はしないであろう、というのがここ数年――いえ、頂上葉佩に関する事件を経て私が得た所感でした。
 まあそんなことはどうでもいいのですけれど。
 水無瀬がアホ面をさらして観ているのは、テレビドラマのようでした。
 ちょうどお昼過ぎなので昼ドラというやつでしょう。
 私の言いつけ通りに音量は小さめですが、たまにヒステリックな金切り声や、ねちねちとした小言のシーンが聞こえてきますし。
 することもないので(することはあるけれどしたくないので)水無瀬をぼーっと見ていると、男女が熱いキスをしているシーンに、水無瀬はぱちぱちと拍手をしていました。
『水無瀬』
「なーにバンビさん?」
『お前キスがどんなものか分かっているのか』
 あまりにズレた行動に思わず突っ込んでしまいます。
 水無瀬は「んーと」と考え込んだ後、笑顔で答えました。
「わかんないや!」
『とりあえずそうやって拍手して応援するようなシーンではないぞ』
「そうなの?」
『そうだ』
 案の定わかっていませんでした。まあそうだろうなとは思いましたが。
「バンビさんは物知りだね」
『お前が物を知らなさすぎるだけだ』
「そうなの?」
『そうだ』
「そうなんだー」
 素直なお返事でした。
 いつもこうならいいんですけどねえ。普段は食い下がって駄々をこねまくるので。
 まあ興味がないんでしょう。人の情動というやつに。
『はぁ……』
 手にはめたパペットを机に押し付けながら、私は深くため息をつきます。
 こんなことをしている場合ではないのです。
 早くなんらかの手を打たなければ。
 どうしましょうか。古典的な手を使うのであれば、電柱に張り紙とかでしょうか。
 いえ、そんなことをしたら条例違反でしょっぴかれてしまいます。一応警察と共同歩調を取っているという体なのですから、こんなくだらないことで虎の尾を踏みたくありません。
 ではどうするか。
 いっそのこと警察に仕事をあっせんしてもらいにいきましょうか。
 何かあるでしょう。ほら、迷い猫を探すとか。
 水無瀬は何故か猫に好かれる体質なので、よく公園で寝ては猫に埋もれているのを目撃しています。
 そこまで考えて迷い猫は警察の管轄というより保健所の管轄なので、わざわざ警察が探すということもないと思い至りました。
 あーもうどうしましょう。
 恥を忍んで同業者にお金でも借りますか?
 いやいやそんなことをしたら付け入られます。探偵業というのはシビアなものなのです。
 借りは作るな、貸しは積極的に作れ。
 私を探偵に育て上げた妙度さんのありがたいお言葉です。
 正直これが一番今の私を形作っています。この一点に置いては尊敬しています、妙度師匠。
 ああ違うこんなことを考えている場合ではありませんでした。
 金策です、金策。
 お金を借りても良心的に対応してくれる人。
 そんなの私たち担当の刑事である狸さんしか思い至りません。
 でも流石に刑事さんにお金を借りるのはなあ。
 うぐぐぐぐ。
 体ごと傾けながら悩んでいると、入り口のドアのほうからコンコンとノック音が聞こえてきました。
 肩をびくっと跳ねさせて私はそちらを見ます。
 私は自他ともに認める臆病者というやつなのです。
 この臆病者センサーのおかげで、私は様々な試練を乗り越えてきました。
『でもセンサーに反応するだけで実際は逃げられていないよねえ』
 うるさいですよ、想像上の妙度さん!
 私の内心に勝手に介入してこないでください!
 ついさっき思い出したせいで頭にちらつく強い女の幻影を追い出し、私はじっとドアを見つめました。
 ……音がしません。
 静かな呼吸音が聞こえるぐらいです。
 直立不動の姿勢でいる? 私が出てこないことに困惑もしていない?
 不思議に思いながらもそっとパーテーションに近付き、ドアの前までたどり着きました。
 ……なんでしょう。ドアの向こうから冷え冷えとした感じが伝わってきます。
 しかしそのまま放置するわけにもいかず、私はそろそろとドアを開きました。
 最初に見えたのは黒のパンツスーツ。視線を上にやると、高身長の女性と目が合いました。
「突然の訪問失礼します。こちらは小鹿探偵事務所でお間違いないですね?」
 ヒッ! なななんですかこの冷酷美人さんは!?
 動かない表情筋もさることながら、言葉にも抑揚がほとんどなく、冷たい印象を助長させています。
「依頼をしに来ました。小鹿ひばなさん」
 頭上から威圧されてバクバクと跳ね回る心臓を押さえつけ、ドアの陰に半分だけ体を隠しながら、私は何か言おうと口を開きかけました。
 しかしそれに先んじて、黒髪の彼女は淡々と名乗りました。
「私は悠里。大見悠里です」
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